賃貸の信用性
私たちは少なくとも二つの区分線は引くことができる。
第1は、賃金を労働者の潜在能力(身に宿している能力)に対して支払うのか、顕在能力(発揮された能力)に対して支払うのかの区分である。
前者の場合、二人の労働者がたとえ同じ仕事をしていても、なんらかの基準で測られる能力水準が違えば賃金が異なる。
よく使われる言葉では属人給、ひとに対する支払いである。
逆に後者の場合には、たとえ能力水準が同じでも、実際にしている仕事の種類や実績が異なれば賃金が違う。
だから仕事に対する支払いである。
なお、考えてみればすぐわかるように、この区分自体は、ある賃金システムが「能力主義的」であるかどうかを、なんら示すものではない。
およそ賃金は広義の仕事遂行上の能力に対して支払われる。
「能力主義的」とは、それゆえ、この原則にあてはまるということでは十分でなく、その支払いシステムに能力の開発と発揮に向けて個人の努力をあおるインセンティヴ(刺激)が仕掛けられているということなのだ。
だから属人給、仕事給のいずれにも、能力主義的なものとそうでないものがありえよう。
ともあれ大雑把にこうはいえると思う。
日本の企業社会ではなお属人給が支配的である。
それに対して欧米のブルーカラーと一般のホワイトカラーの両方をふくむノンエリート労働者の世界では、なお仕事給がふつうなのである。
第1の区分は、潜在能力・顕在能力のいずれを基準にするにせよ、それはおよそ労働者個人に対する評価なのか、それとも職種、勤続、年齢など労働者のなんらかの集団的属性に対する評価なのかを問うものである。
「労働者個人」に対する支払いとは属人給と同じ意味ではない。
ここでの区分軸は個人別人事考課(査定)があるかないかである。
査定がない場合、仕事の種類や勤続年数や年齢が同じであれば個人に支払われる賃金は同じである。
「横並び」の非人格的な支払いといってよい。
査定がある場合はしかし、それらにおいて同じであっても、一人ひとりの働きぶりやがんばりの評価によって賃金が個人ごとに違ってくるのである。
※ちなみにこの第1の区分軸は、一般に労働組合は「集団的属性」への一律の評価を擁護するという前提に立てば、経営主導型か組合規制型かの区分におきかえてもよい。
植山文雄氏はこの区分をとっている。
しかし後にみるように、少なくとも日本の民間大企業労組のりーダーたちの多数はいま、昇給の査定幅の拡大に対して少なくとも反対ではない。
賃貸を余すとこなく分析しました。賃貸物件の裏側に迫ります。
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